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考城隍

注釈 6
580
原文字数
1340
訳文字数
6
注釈数
~4
読了時間

📖日本語訳

宋公、諱は焘、邑の庠生なり。ある日、病に臥せていると、役人が公文を持ち、白い額の馬を引いて来て、「試験にお越しください」と言った。
公が「試験官はまだ来ていないのに、どうして急に試験が?」と言うと、役人は何も答えず、ただ急かした。公は無理をして病躯を引き上げ、馬に乗って付いて行くと、道はまったく見知らぬものだった。
ある城郭に着くと、それは王者の都のようだった。しばらくして官庁に入ると、宮殿や建物は雄大で美しかった。
上座には十人ほどの官人がいたが、誰だか分からず、ただ関壮繆(関羽)だけが識別できた。軒下には机と腰掛けが二つずつ設けられ、先に一人の秀才が末席に座っており、公はその隣に並んで座った。机の上にはそれぞれ筆と紙があった。
やがて問題用紙が飛んで下りてきた。見ると、八字で「一人二人、有心無心(公務における人数、意図の有無)」と書かれている。
二人が文章を書き上げ、殿上に奉ると、公の文中に「有心為善、雖善不賞。無心為悪、雖悪不罰(意図して善を行っても、その善は賞されない。意図せずに悪を行っても、その悪は罰せられない)」とあった。諸神はこれを伝え回し、賞賛してやまなかった。
公を上に召し、告げられた。「河南に城隍(町の守護神)が一人欠けている。あなたがその職にふさわしい」。公はようやく悟り、頭を地に付け涙ながらに言った。「光栄なご任命をいただき、多くを申し上げるのは恐縮ですが、老いた母が七十歳で、面倒を見てくれる者がおりません。どうか母が天寿を全うするまでお許し願い、その後でご採用いただけますように」。
上座の帝王のような姿の者が、すぐに母の寿命の記録を調べるよう命じた。長いひげの役人が冊子を捧げて一通りめくり、「陽間(この世)の寿命はあと九年あります」と報告した。
一同が躊躇っていると、関帝が言われた。「さしあたり張生に九年間、代理の印を預からせ、任期が来れば交替させればよい」。そして公に言われた。「あなたはすぐに赴任すべきところだが、今あなたの仁孝の心を推し量り、九年の休暇を与えよう。時期が来ればまた召す」。また、秀才を数言励まされた。
二人は揃って礼をして下がった。秀才は手を握り、郊外まで送って、「自分は長山の張某である」と名乗った。詩を贈って別れたが、その言葉はすべて忘れ、中に「花有り酒有れば春常に在り、燭無く灯無ければ夜自ら明し」という句があった。
公が馬に騎ると、秀才は別れて行った。里に着いた時、はっと目が覚めたような気がした。その時、公はすでに三日間死んでいた。母が棺の中から呻き声を聞き、助け出すと、半日たってやっと話せるようになった。
長山のことを尋ねると、果たして張生という者がおり、その日に死んでいた。その後九年経ち、母は果たして亡くなった。葬儀を終え、身を清めて家に入ると、公は息を引き取った。
公の岳父の家が城の中、西門の近くにあったが、ある時突然、公が金飾りの胸当てと赤い馬飾りを付け、多くの車馬を従えているのを見た。堂に登り、一礼して去って行った。家族は驚き怪しみ、彼が神となったことを知らず、急いで郷里に尋ねると、すでに亡くなっていたのであった。
公は自ら小伝を記していたが、惜しいことに戦乱の後で残っておらず、これはその概略である。

📝注釈

宋公、諱は焘

「諱は」は「諱(忌み名)が~」とし、実名を控えめに示す格式のある表現です。

関壮繆

関羽の死後の諡号。日本でも知られる「関羽」または尊称「関帝」と訳す方が理解されやすいため、初出後は「関帝」を用いました。

邑庠生

「邑(村)の庠生(科挙受験者)」と直訳すると分かりにくいため、「科举の受験者(郷試を受ける資格を持つ書生)」と説明を加えることがありますが、ここでは「邑の庠生」とし、古文調を保ちました。

城隍

中国特有の都市守護神。一般的な「土地神」ではニュアンスが異なるため、そのまま「城隍」とし、補足説明を加えました。

摂篆・瓜代

摂篆」は「代理の印を預かる」、「瓜代」は「任期が来て交替する」と、故事成語の意味を訳文中に組み込みました。

有心為善、雖善不賞。無心為悪、雖悪不罰

物語の主題となる思想です。日本語として自然であり、かつ原文の対句構造と重みを保つ訳文を心がけました。

📜原文

宋公諱燾,邑庠生。一日,病臥,見吏人持牒,牽白顛馬來,雲:“請赴試。”公言:“文宗未臨,何遽得考?”吏不言,但敦促之。公力病乘馬從去,路甚生疏。至一城郭,如王者都。移時入府廨,宮室壯麗。上坐十餘官,都不知何人,惟關壯繆可識。簷下設幾、墩各二,先有一秀才坐其末,公便與連肩。几上各有筆札。俄題紙飛下。視之,八字雲:“一人二人,有心無心。”二公文成,呈殿上。公文中有云:“有心為善,雖善不賞;無心為惡,雖惡不罰。”諸神傳贊不已。召公上,諭曰:“河南缺一城隍,君稱其職。”公方悟,頓首泣曰:“辱膺寵命,何敢多辭?但老母七旬,奉養無人,請得終其天年,惟聽錄用。”上一帝王像者,即命稽母壽籍。有長鬚吏,捧冊翻閱一過,白:“有陽算九年。”共躊躇間,關帝曰:“不妨令張生攝篆九年,瓜代可也。”乃謂公:“應即赴任;今推仁孝之心,給假九年。及期當復相召。”又勉勵秀才數語。二公稽首並下。秀才握手,送諸郊野,自言長山張某。以詩贈別,都忘其詞,中有“有花有酒春常在,無燭無燈夜自明”之句。公既騎,乃別而去。及抵裡,豁若夢寤。時卒已三日,母聞棺中呻吟,扶出,半日始能語。問之長山,果有張生,於是日死矣。後九年,母果卒,營葬既畢,浣濯入室而沒。其岳家居城中西門裡,忽見公鏤膺朱幩,輿馬甚眾。登其堂,一拜而行。相共驚疑,不知其為神,奔詢鄉中,則已歿矣。公有自記小傳,惜亂後無存,此其略耳。